Gallery HIROSHIMA

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1.宮島、しまなみ
宮島(厳島)は古代から自然崇拝の対象でした。 厳島神社が今のように整備されたのは、平安時代末期です。「厳島神社を整備すれば、貴方は必ずや位を極めるだろう。」予言を受けた平清盛が厳島神社を整備したのです。(現在の社殿は毛利元就によって1571年に再建しました)。平安時代から「舞楽」の伝統が存在し、さらに「能楽」が毛利元就によって献上されたので、厳島で芸能がとても発展しました。
歌舞伎や大相撲の興行も盛んで、井原西鶴によって書かれた『浮世草子』によると、厳島は西国三大芝居どころとして記録されています。正式な名称は「厳島」ですが、「宮島」という呼称も広く使われています。一般的には、学術的な文献や行政文書では「厳島」が多く使われ、観光地として指すときには「宮島」が多く使われる傾向があるようです。
宮島に産業がないことを案じた僧侶が、しゃもじを名物として売り出すことを町民に教えました。願掛けを書いたしゃもじは直ぐに大人気となり、土産品として有名になりました。
初の内閣総理大臣・伊藤博文はたびたび宮島を訪れています。広島の名産品の「もみじ饅頭」の起源について、次のような逸話が広く流布しています。「伊藤博文が、宮島の娘の手がもみじに似ていることから、アイデアを思い付いた」という逸話です。
広島県の東部に広がる瀬戸内海の美しさはこれまで多くの芸術家を魅了してきました。なかでも福山市「鞆の浦」と尾道市「しまなみ海道」はその代表といえます。
川瀬巴水『星月夜』 井堂雅夫「鞆 弁天島」

2・原爆投下
1945年8月6日、広島上空には青空が広がっていました。 午前7:09、エノラ・ゲイを先頭にして3機のB-29が広島市内上空に入ってきました。空襲警報のサイレンが市内に鳴り響き、多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込みました。午前7:31、B-29戦闘機が離脱していき、空襲警報は解除されました。 一方、広島市の東、西条町(現在の東広島市)では、監視兵がB-29の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をしました。 午前8:13、再び空襲警報が発令されます。
午前8:15、人類史上初の原子爆弾(原爆)重さ5tのウラン爆弾「リトル・ボーイ」は、地上600mの上空で爆発し、中心温度100万度の火の玉となりました。爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したと推測されています。爆心地から1.2kmの範囲内では、約50%の市民がその日のうちに死亡しました。約14万人の人々が1945年末までに死亡しました。
日本画家の平山郁夫は、このとき中学3年生でした。彼は落下傘が空から降ってくるのに気づいて、仲間達に報せるために屋外から小屋に入りました。それと同時に、彼の背後で原子爆弾が爆発しました。平山郁夫の創作活動の原点は、この日に見た地獄のような光景です。
 平山郁夫『広島生変図』

詩人峠三吉と画家四国五郎は広島で戦後に出会い、一緒に反戦・平和のメッセージを発信しました。 総司令部(GHQ)によるプレスコード(報道規制)下で、彼らは多くの共同作品を生み出しました。 峠三吉は爆心地から約3キロ地点で被爆しました。四国五郎の弟もまた原爆によって亡くなっています。被爆当時の広島の状況を参考にしながら、彼らは一緒に絵や詩を考えました。
「にんげんをかえせ」で知られる峠三吉の代表作「原爆詩集」(1951)の表紙は、四国五郎によって描かれました。東京の出版社は発売禁止を恐れてたため原爆詩集を出版しませんでした。そのため、1951年に自分たちで500部だけ刊行したのです。四国五郎は『峠三吉さんはいつも一番弱い者の視点に立っていた』と語りました。四国五郎は峠三吉から大きな影響を受け、後に彼は母子をテーマにした詩画集などを制作しました。
 峠三吉 「原爆詩集」 初版  挿絵 四國五郎 

原爆は生き残った人たちに影響し続けました。放射能障害とよばれるもので、ケロイドや白血病などです。 白血病は被爆から5~6年たった人に増え始め、10年たった人たちからは、甲状腺癌、乳癌、肺癌が増加しました。 また、死産の発生、そして小頭症の赤ちゃんなど、胎内被曝の影響が認められました。
「黒い雨」とは、原子爆弾爆発後に降った重油に似た大粒の雨でのことです。黒い雨は、放射性降下物(フォールアウト)の一種です。 1965年『新潮』で、井伏鱒二は『黒い雨』という小説を連載しました。1989年、今村昌平は「黒い雨」を映画化しました。その映画の主演女優は田中好子です。
井伏鱒二「黒い雨」初版本    田中好子「黒い雨」ポスター

3.復興
原爆や戦争の悲惨さを直接伝える手法とは別に、戦後の私たちの生活の中にどのような影響があったかが、紹介されています。
学校は原爆で焼けたため、多くの子どもたちが校舎内で勉強できませんでした。 屋根のない校庭で「青空教室」を開いていたのです。「原爆孤児」が2000人から6500人いました。彼らの多くは施設に入りましたが、一部の子供たちは浮浪者となり、靴磨きなどをして生活していました。
『はだしのゲン』は、漫画家中沢啓治による自身の体験を元にした漫画で、 2010年のgooランキングの第1位に選ばています。「はだしのゲン」の実写映画やアニメ映画・テレビドラマも数多く発表されました。漫画の中のエピソードの多くは、中沢が実際に体験したことです。
2007年ウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、「はだしのゲン」の英訳版を加盟国に配布しています。
      

広島の東部に位置する呉には,戦後まで海軍・海軍工廠という大きな基盤がありました。呉は戦艦大和を建造した町としても知られ,呉には40万人の人々が当時住んでいました。しかしながら、終戦で軍需産業が廃業したため,人々は働くところがなくなりました。
1945年、呉は日本で一番失業率の高い都市でした。この混沌とした状況下では、闇市ややくざの存在も大きな位置を占めるようになります。「仁義なき戦い」は、戦後の呉市で実際に起こった抗争を題材にした大ヒット映画です。2009年の「オールタイム・ベスト映画遺産(日本映画編)」では、本作が第5位に選出されています。
「この世界の片隅に」は、こうの文代が書いた人気漫画です。呉に18歳で嫁いだ主人公「すず」は、戦後の困難の中にあっても、工夫を凝らして豊かに生きました。この漫画は2016年に映画化され、映画は日本アカデミー最優秀アニメーション賞に選出されました。 「暴力と良心」2つの対比が同じ町で繰り広げられたことに、戦争がもたらす人間性への影響を思い知らされます。
この世界の片隅に仁義なき戦い

4.広島カープは復興のシンボル
被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球球団を作ろうという話が浮上しました。鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、広島は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と名前が決定し、「広島カープ (Hiroshima Carp)」が誕生しました。 ところが翌年には早くも資金難に直面し解散危機を迎えます。このとき、監督・選手も広島県民も一体となって募金活動(樽募金)を行い、解散を免れます。その後も貧乏球団のカープは弱く、万年Bクラス。セ・リーグのお荷物と呼ばれながら存続していきました。
創設26年目の1975年、カープがセ・リーグ初優勝を決めたとき、これまで耐えてきたすべての県民感情が爆発し、広島県民は狂喜乱舞しました。 野球は男性と子供のファンが多いですが、カープは違います。男性も子供も若い女性も母親も、高齢のおばあさんでさえ、井戸端会議や朝の挨拶にもカープの話題が出ます。 広島カープは、ただのプロ野球のチームではありません。原爆で壊滅した広島にとって、カープ球団はまさに復興のシンボルなのです。広島の苦難・忍耐と、そこに生きる人たちの希望や夢が、カープの中に詰っているのです。
樽募金初優勝で号泣する山本浩二(1946年広島生れ)

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